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こうちゃんママのお部屋

こうちゃんママのお部屋

こうちゃんが生まれた日

こうちゃんが生まれた日
ハート

4月26日(23週0日目)早朝、寝ていた私はいつも以上のお腹の張りで目を覚ました。
急いで張り止めを飲んだ。
張り止めを飲み、また寝ようとしたけど、どうにも寝れず 旦那を起こしたが いつもの事のように流された。
でも私は、うなるほどお腹が痛くなりだしていた。
定期的に来るお腹の痛み、でもその痛みを明るくなるまでこらえた。
空が明るくなった頃、もう一度旦那を起こした。
私のうなる姿を見てやっと分かってくれました。
かかっていた産婦人科に連絡したら、すぐに大きな病院へ行きなさいと言われて、おねいちゃんを連れて、行きました。
その時既に、痛みの間隔は、10分おきになっていました。
それでも私は、これが陣痛だとは思っていませんでした。
診察の結果を聞く時、私は、「しばらく入院になるのかな?」と思っていました
でも、先生からは、産まれます! でした。
頭の中が真っ白でした。

看護婦さんがおねいちゃんを、離れた所に連れていき、「どうするか夫婦で話し合った下さい」と言われ、さらに頭の中はパニックで、泣く事しかできないまま病室に運ばれました。
この時に何を考えていたか?そして、何を話していたのか覚えていません。

しばらくすると、小児科の先生や産婦人科の先生やら沢山集まり、産まれてくる子供についての説明がありました。
まず、言われたのが、助かる可能性は、1%!
もし助かったとしても、障害を持つ子供になる!
それでも産みますか?  という話でした。
突然 「産みますか?」と聞かれて、産んだ後自然に任せますか?
それとも最善を尽くしますか?みたいな事を聞かれ、まだ生まれることすら信じていない私達は何をどう考えれば良いのか?
でも必死で考えました。

今思えばあの時、遠まわしに、死産も選べますよ!と言っていたかと思うとハッとします。
でもそんな状態だとはその時、私達は考えもしませんでした。

多分、周りにいた先生や看護婦さんたちが、私達に冷静に考える空間を作ってくれたのだと感謝しています。

考えたけど、産むも産まないも どんな子供でも、私達の子供なのだから産むに決まってました。
私達の子供が助からないなどとは まったく考えていませんでした。
でも、その病院には、NICUはありませんでした。
そこで、母体搬送を進められましたが、NICUのある病院で産めば家から遠くなり、実家がそばでなかった為、おねいちゃんはどうる?などと考えて、母体搬送は断りました。
私達は、母体搬送の意味も、NICUのない事の意味もまったく理解していませんでした。
自分達に何が起こっているかなど考える暇もなく、出産の準備が始まりました。

病院に着いてから8時間後 普通分娩で、622gの男の子出産!!
顔も見れずに、保育器に入れられました。
普通、産んだ直後、感動すると思いますが、産んだという実感はなく私は、子供が心配で、ドキドキしていました。

それを察した看護婦さんが、廊下にある保育器まですぐ連れて行ってくれました。看護婦さんは「今、会っておかないと」と言いました。
その言葉を聞き、初めて、子供が危険な状態である事に気付きました。
保育器をのぞいたけど、涙で子供の顔は見えず、ただ こげ茶色の小さい固まりが見えただけでした。
後で(こうちゃん退院後)、母子手帳を見て分かった事ですが、産まれた時、仮死だったみたいです。
母子手帳の出産の記録の欄の{仮死産⇒死亡or蘇生}で、蘇生に丸がしてあるのを見て、ドキッとしました。

保育器に入れられたこうちゃんは、救急車で、1人、NICUのある病院に運ばれて行きました。

旦那はその頃、おねいちゃんを私の実家に預ける準備をしていました。
それが終わると、こうちゃんのいる病院に行き人工呼吸器を付け、チュウブだらけのこうちゃんに会い先生の話を聞き、私の元へ戻り、こうちゃんの状態と、先生から聞いた事を話してくれました。
でも、旦那は俺がしっかりしなければと言う気持ちと、あまりのショックでいっぱいいっぱいだったと、後で聞きました。
それに何をどう言葉にすれば良いのか?何から伝えたら良いのか?
先生が何を話していたのか?さえ分かっていなかったと話していました。

でも、とりあえず分かったのは、必死で生きようとしている事だけでした。
あと、名前を決めて下さいと言われた事でした。 名前は、旦那が決めたいとの事でした。

名前は、光に輝くと書きます。
これから、こうちゃんが、光のある所(保育器の外)に出られますように、と言う意味、そしてその光の下で、いっぱい輝いて欲しい!
どんな事があっても、自分らしく輝いていて欲しい!
そんな思いで・・・パパが命名しました。

先生に早く名前を付けてあげて・・・・と言われ、涙が止まらなかった。
この子が生きているうちに名前を・・・・と言う事だったと思います。
むごい事だけど、これが現実だったんです。
それだけ危険な命だった証拠。

今、生きているのだと分かり、少しは安心したものの、1日生きれるか?2日生きれるか?と言われていたので、私は、寝ようとしても、寝ている間に何かあったらと思うと寝れず、こうちゃんのことを考えてベットの中でただただ泣いていました。
その時私は、手帳に、

涙はいっぱい出てきちゃうけど、今は、泣いてあげるよりも前を見て、頑張って!と思ってあげる事しかできないけれど、泣いていても、何も変わらないのだから。。。。。あなたの生命力を信じます。
頑張れ!我が家の長男!少しでもあなたの姿が見たい!見せてね!

と、まだ見ぬ我が子に送る手紙を書き、自分を落ち着かせていました。
きっと、ベットの中で、何もしてあげられず、こうする事しかできなかったのだと思います。

こうして、こうちゃんが生まれた長い長い1日が終わり、私と旦那とこうちゃんとおねいちゃんとでの長い長いNICU生活が始まった。。。。。。。。。

普通子供が生まれた日というものは、うれしい日のなるのに、私達は、違いました。
不安と涙の1日でした。




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